弱日記

弱男の思ったこと、感じたことを適当に書いていく。映画の話とサッカーの話が多くなる可能性大。

自分がどう感じるか?

ネットニュースを見ていると、ダウン症ある人の9割が幸せだと答えたというものが目につきました。

その記事に対してのコメントをざっと見てみると、

「そんなの当たり前だろ。不幸がなんであるかも正確に認識できていないんだから」

というものや、

「周りの人間が大変だったりするんだからそこのアンケートもとらないとダメだろ」

というものがありました。

私から言わせてもらえば、これらのコメントをしている人たちは記事の内容を全く理解ができていない。

私は特にダウン症の方と接点があるわけではないし、その症状の多くを把握しているとは言いがたい。

ただそこはたいして重要ではなくて、あくまでも、幸せかどうかを感じることができるのは自分以外にいないということ。

障害や怪我を負った人、或いは貧しい人、周りの人間が勝手に同情してくるような「なにか」を背負っている人は世の中にたくさんいます。

けれども彼ら本人がその「なにか」を不幸と感じているかはわからない。

逆に周りの人間が羨むような地位や権力、お金を持っている人間が必ずしも幸せを感じているかはわかりません。

 

人類が進化をしてきた中で、知能は高くなってきたわけです。その中で将来のリスクや不安なこと、世界に存在する不条理なことにまで考えられるようになりました。

そして幸せを確認するために相対化して、人と比べたりするようにもなりました。

それらのことがリスク回避に役立っていたり、生存確率を上げる要因になっていることなのかもしれません。

 

話を戻します。ダウン症の症状として精神発達の遅れがみられる場合があります。個人差は当然あるでしょう。

その精神発達の遅れが、幸せを感じる要因となっているのではないでしょうか。

これは非常に重要なことです。精神発達の遅れや発達障害といったものにネガティヴなイメージを持つ人もいるかとは思いますが、そんなことはどうだって良いんですよ。

本人が幸せを感じているということが、この話の中では重要。それはダウン症であるかどうかも関係ないといってよい。

私が言いたいのは、幸せってのは他人が判断することでもないし、他人がその人の幸せを「感じる」ことなんぞ到底不可能なわけです。感じるのはその人自身に他ならない。

 

私は日本で生まれ、育ち、特別裕福とは言えないながらも、大学にも通え、1日3食しっかりと食べることができています。

こんな私が置かれている状況を羨ましがる人間は世界を探せばたくさんいるでしょう。

それこそ食べることさえ困難な人や、教育を受けられない人、様々な困難の中にいる人がたくさんいるわけです。

それらの人よりもずっと恵まれた環境の中で生きてきたのだということはわかっているつもりです。

ただ、そんな恵まれた環境のなか、私が幸せを感じでいるかというとそうでもない。

こんなことを言ったらダメだとは思うのだが、幸せを感じていないのは事実である。時々不安に押しつぶされそうなことがある。

世界の不条理に押しつぶされそうになる。

それは自分だけではなく、多くの人が直面している問題で、高度化した社会では自分で死を選ぶような人が増加してきているのもまた事実です。不幸がないことの不幸とでも呼びましょうか。

高度になって豊かになって、寿命も大幅に伸び、一見良いことばかりにも思える人類の進化だが、それが幸福をもたらすかはわからない。

 

人類以上の進化を遂げた宇宙人を探すために、宇宙に高度で巨大な建造物がないか探している研究者や機関が世界には数多く存在するわけだが、本当にそんな高度な進化を遂げた生物がいるのだろうか?

ある研究者は否定する。

そんなに高度な進化を遂げた生物は存在し得ない、その前に破滅すると。

進化していった先に待ち受けるのは、なんであろうか。進化をしたことで問題が大きくなっていき、その問題は自らのからだを蝕むようになっていく。いずれ耐えられなくなる。

 

必ずしも進むことが幸せではないなと感じた

という話でした。